一歩、二歩と後退りするケルンは、窮地に立たされていた。
自分の力は通常の能有りよりも強い。この力は二人殺めるに充分過ぎる程の殺傷能力がある。だが、感情のままに動く事も、人を殺める事も自分の身に良くない事だとケルンも理解していた。 感情的になるな。落ちつけ。ケルンはひとつ息を抜く。「おい。その前に訊かせろ。おまえの信仰する〝唯一神〟とは誰だ」
ケルンは静かに訊くが、聖職者は何も応えない。
男の使用人は怯え切った瞳のまま、ケルンを見つめていた。(こちらの話は無視。無駄か……)舌打ちをした瞬間。またもギシギシと音を上げて、内部を侵す金属の浸食が始まった。抑えきれぬ怒りに、紋様のある手からは権能の力は溢れ出す。
自分の周りは真昼のように煌々と明るくなり、背後には幾何学模様の歯車がゆったりと回り始める。 ──意図せぬ臨戦態勢だった。(だめだ。殺すな……抑えろ、怒るな) 肩で息をしながら、ケルンは自分を必死に戒める。 本当は殺したい。憎い。だが、それでは全てが〝あちら側〟の思う壺だ。何とか打開策を探さねばならない──そう思考を巡らせるも、まともな演算すらできない。
ファオルは聴くだけの、傍観者だ。クレプシドラの目となり耳という役割でこの場面に介入したところで、何もできないのはケルンも分かっていた。
その証拠と言わんばかりに、気配は近くで感じる。 耳をすませば、啜り泣く声が聞こえるもので……。 完全な窮地である。だが、それは使用人の男も同じだろう。彼は真っ白な顔でケルンを見て絶望の面輪を浮かべている。この表情から察する。恐らく、この男は〝刃向かえない境遇〟なだけだろう。
或いは洗脳だのそういった類いで操作されているのだろうかと。 ならば、この男を説得するのが一番だ。ケルンが彼と向きあったと同時だった。「早くなさい」
冷たく響いた聖職者の命令に、使用人の
一歩、二歩と後退りするケルンは、窮地に立たされていた。 自分の力は通常の能有りよりも強い。この力は二人殺めるに充分過ぎる程の殺傷能力がある。だが、感情のままに動く事も、人を殺める事も自分の身に良くない事だとケルンも理解していた。 感情的になるな。落ちつけ。ケルンはひとつ息を抜く。「おい。その前に訊かせろ。おまえの信仰する〝唯一神〟とは誰だ」 ケルンは静かに訊くが、聖職者は何も応えない。 男の使用人は怯え切った瞳のまま、ケルンを見つめていた。 (こちらの話は無視。無駄か……) 舌打ちをした瞬間。またもギシギシと音を上げて、内部を侵す金属の浸食が始まった。抑えきれぬ怒りに、紋様のある手からは権能の力は溢れ出す。 自分の周りは真昼のように煌々と明るくなり、背後には幾何学模様の歯車がゆったりと回り始める。 ──意図せぬ臨戦態勢だった。 (だめだ。殺すな……抑えろ、怒るな) 肩で息をしながら、ケルンは自分を必死に戒める。 本当は殺したい。憎い。だが、それでは全てが〝あちら側〟の思う壺だ。 何とか打開策を探さねばならない──そう思考を巡らせるも、まともな演算すらできない。 ファオルは聴くだけの、傍観者だ。クレプシドラの目となり耳という役割でこの場面に介入したところで、何もできないのはケルンも分かっていた。 その証拠と言わんばかりに、気配は近くで感じる。 耳をすませば、啜り泣く声が聞こえるもので……。 完全な窮地である。だが、それは使用人の男も同じだろう。彼は真っ白な顔でケルンを見て絶望の面輪を浮かべている。 この表情から察する。恐らく、この男は〝刃向かえない境遇〟なだけだろう。 或いは洗脳だのそういった類いで操作されているのだろうかと。 ならば、この男を説得するのが一番だ。ケルンが彼と向きあったと同時だった。「早くなさい」 冷たく響いた聖職者の命令に、使用人の
──伯爵家の敷地は広大だった。 母屋、離れともに石造り。その二つの建物を繋ぐ渡り廊下は緩やかな湾曲を描く屋根がついていて、側面に置かれたトレリスに葉を落とした蔓薔薇がびっしりと絡んでいた。 離れの奥には礼拝堂がある。 円錐型の屋根の上には歯車の中の火輪。その下には均等な長さの十字。それらを、翼を広げて強靱な足で掴む鷹のレリーフ──ツァール聖教の象徴が掲げられていた。 ケルンは物心ついた時から、ヴィーゼ伯爵領に居た。 小高い丘の上に佇むこの屋敷は景色の一部で馴染みがある。けれど、実際に足を踏み入れたのは今日が初めてだった。 見上げた空は、沈黙を抱いていた。 やがて、雪がしんしんと降り始める。母屋の屋根の上、ケルンは白い息を吐いて屋敷全体を眺めた。 しかし、なかなか動きが見えない。 キルシュが屋敷に辿り着いたのは遠目で分かったが、今は恐らく母屋の玄関ポーチの下。突き出した屋根に隠れているので状況が掴めない。(せめて会話が聞こえるくらいまで移動するか……) 動こうとしたその瞬間だった。途端にファオルの叫びが劈いた。 何事か。ケルンは迅速に玄関ポーチの上へ移る。同時に傍らで光の渦が弾けた。 『──キルシュが捕まった! 相手は能有りの使用人! 急げ!』 返事もせずケルンは屋根から飛び降り、雪を巻き上げ着地した。 舞い上がる粉雪のベール。それが晴れて、目にしたものにケルンは、たちまち目を吊り上げた。 使用人服を召した金髪の男がキルシュを抱えてそこに居た。 気絶しているのだろう。キルシュは使用人の腕の中でぐったりとして、目を閉ざしている。 彼女は養女だろうが、使用人からすれば、一応〝お嬢様〟という身分。屋敷の者に叱責される事はあったとしても、気を失う程の折檻は度が過ぎているだろう。 それも能有りの力を使ってだの……。「おい。キルシュに何をした」 ケルンは真っ直ぐに睨み据える。使用人の
暫くしてもキルシュは何も答えられないままだった。 静謐の中で、シュネが啜り泣く声だけが響き渡る。 だが、シュネ立場で考えれば理解できる。 もし、同じ状況下に置かれたとなれば、自分だって同じ事をするだろう。そもそも彼女を責めるのは筋違いだ。 義兄の婚約者と隠していた事においても、彼女が捕縛された事においても、何一つ彼女を責める部分などない。〝隠していた〟だけで、彼女は何一つ悪い事なんてしていない。寧ろ、義兄の毒牙にかかった犠牲者に違わないだろう。(能有り能無しを抜きにしても、女を何だと思っているの……同じ人間に変わりないのに) ボロボロになった彼女の姿を見るだけで、酷く心が軋む。 それでも、先程聞いた言葉の意味を、どうしても確かめずにはいられなかった。キルシュは鉄格子の向こうで肩を震わせるシュネに、そっと声をかける。 「ねぇ、シュネさん。さっき言っていた《蝕》って何……?」 キルシュの問いかけにシュネは、顔を伏せたまま、膝に落とした手をぎゅっと握りしめた。 その指がかすかに震えているのを、キルシュは見逃さなかった。 「……能有りを人間とさえみなさない、国境過激派諸派よ。歴史の中で何度も能有りの虐殺を行ってきた」 ──それが《蝕》。イグナーツ様は……違う。ヴィーゼ伯爵家そのものが代々信心の深い信徒だった。 その言葉を聞いた瞬間、キルシュの中で何かが外れた。 まるで心の奥に、閉じられていた扉が、ひとつ、音を立てて開いた心地がした。 脳裏で火の粉が舞う──刺すような冷たい空気の中で燃え盛る炎の熱さ。建物を燃やす轟音と子どもたちの悲鳴や泣き声。そして、血まみれで地面に突っ伏せた伏せた大好きな親友。 ボーン、ボーン……と低く響く柱時計の鐘の音が耳の奥で響き渡る。 身体の自由を奪われた上、目隠しをされて呪詛のような言葉の羅列……。
遠くでシュネの呼ぶ声が聞こえて、キルシュは瞼を動かした。 確か、消息を絶ったシュネを探しにレルヒェの街に降りて……伯爵家に帰って。その一連を思い出した途端、キルシュははっと瞼を開けた。 (シュネさん……!) しかし随分と埃臭い。横たわっていた場所は、煤けた簡素な寝台の上──キルシュは体を起こし上げてすぐだった。「キルシュちゃん! ここよ!」 シュネの声はやはり幻聴ではなかった。キルシュが急ぎ、声の方を向くが絶句した。目の前には鉄格子。向かいの房にシュネがいた。 しかし、黒衣のドレスの胸元は破れ、髪の毛は随分と乱れていていた。頬を撲たれたのか腫れている。それに彼女の瞳は赤々と充血し、溺れるように潤っていて……。 まるで──〝乱暴でもされた〟ようだった。彼女の姿を見てキルシュは青くなるが、すぐさま、彼女に近付こうと鉄格子に寄って、初めて違和に気付いた。 キルシュの両手には手かせが嵌められていた。 その手の甲に浮かぶ「能有りの証」である紋様は、赤い塗料でべっとりと上書きされている。 ──火輪に似た形。その周囲を囲う歯車、機械仕掛けの羽根、そして栄光を象徴する光。それはまるで、ケルンの紋様に、国教の全てをなぞったかのような、奇妙な印だった。「……何、これ」 ぞっとして、キルシュは訝しげにそれを見つめる。 だが不思議な事に、力が湧いてこない。こんな状況なら、蔓草が勝手に現れてもおかしくないはずなのに。(もしかして……権能を無効化して、《心》を遮断している?) 屋敷に戻ってからの記憶は曖昧で、ユーリに会った後、何が起きたのかすら掴めなかった。 ただひとつ、シュネが生きていた事だけが確かな救いだった。 向かいの牢の彼女に、キルシュは声をかける。「シュネさん……無事でよかった。大きな怪我はしていませんか?」
伯爵家に続く緩やかな坂道を自分の足で昇るのは、随分と久しかった。 前に帰省した秋口は、ユーリの御する馬車に揺られての帰省。酷く陰鬱な気持ちだった。だが、今のキルシュは、それ以上の不安を背負っているというのに、なぜだか気持ちが軽かった。 シュネが生きている希望があると分かってほっとした事もあるだろう。 それに、今は一人ぼっちではない。ケルンやファオルだっている。それが分かるだけで、伯爵家に戻る事に関しては大きな不安は無かった。 それでも、この絆は永遠にできないのは分かっている。不透明で先行きなど一つも見えない。朝の不安はやはり頭をちらついた。(それでも私は、今を大切にしたい……少しでも希望を信じたい) どこに身を潜めているか分からないケルンの事を思いながらキルシュは歩む。今日の今日で全てが崩れるわけがないだろう。そう願いつつ、キルシュは黙々と歩んだ。 ややあって、門の前に辿り着く。 キルシュが柵を押そうと手をかけたと同時だった。どこか不安そうにファオルが頬に擦り寄ってきた。『キルシュ、正面から行くの?』「うん。状況が分からない以上、こそこそ入っても仕方ないもの。……私は、ここの〝お嬢様〟なんだから」 大丈夫と念を押すように言うと、ファオルは静かに頷いた。 白い鳩の姿をしたファオルが、どこか甘えるように擦り寄る。それがとても愛しくて、キルシュは微笑む。 今そばにいてくれる事。それだけで心が救われる。(たとえ、門の先で罵倒されようと──もう、怖くはない) 覚悟は決まっている。それでシュネが無事ならば、それだけで良い。 屋敷を見上げると、灯りは煌々と灯っていた。 詳しい時間は分からないが、街の民家で時計を見た時、午後九時になろうとしていた頃合いだった。なので、まだ日付は跨いでいないだろう。 しかし、キルシュは一つ違和を覚えた。正面玄関真上、最上階に位置する領主の部屋の灯りだけが消えているのだ。 …&hellip
寒空は分厚い雲に覆われていたが、雪明かりのせいか、妙に空は明るかった。(雪が降っていないだけ、まだ良かった……) それでも寒い。レースをふんだんにあしらった焦げ茶色の外套に身を包んだキルシュは、時折吹く氷の風に肩をすくめながら夜の森を進む。 その肩に乗るファオルは、まだ鼻をすんすんと鳴らし、静かに泣いていた。 カンテラに照らされた雪の道は、シュネが権能で融かしていたおかげで、歩みに支障は無い。そんなキルシュの少し後ろを、ケルンがいつもの軽装で黙々と歩いている。 既に、森の奥深くにある廃教会を出ておよそ一時間。 針葉樹ばかりだった木々に落葉樹が混じり始め、上空も徐々に開けてきた。森の出口が近い証拠だ。 ──こんな長距離を、雪の日も雨の日も。 シュネは、これを毎日のように往復していたのだろうか。今さらながら、彼女の体力に圧倒された。 だが、それよりも。 本当に、どうしてしまったのだろう。事件や事故に巻き込まれていなければいいが……とにかく早く、無事を確かめたい。胸の中では、そんな思いばかりが渦を巻いていた。 やがて森を抜けると、遠くにぽつぽつと街灯と民家の灯りが見えてきた。 キルシュは立ち止まり、やや後ろを歩いていたケルンの方へと振り返る。 彼は変則的な使徒で、元は人間──その姿は、普通の人間にもそのまま見えてしまうと、以前話していた。 闇にぼんやりと浮かぶ発光する瞳。首元に露わになった金属質の部位。 確かに、これでは目立ちすぎる。見られれば、厄介な事になるだろう。 「ケルン、ここで待っていて。私は民家や商店に聞き込みに行ってくる。……多分、ファオルは私の肩に乗っていても、普通の人には見えないと思うから」 ファオルの背をそっと撫でながらそう言うと、ケルンはすぐに首を振った。「いや。この時間だ。夜も更けてきて、人通りはほとんど無い。……俺は目立たないようにキルシュを追う。キルシュにまで何かあ